田副暢宣

ダンスミュージックの歴史(年表)~1900年以降

1901年 ジャズ最初の偉大なソロ奏者ルイ・アームストロングが、ルイジアナ州ニューオリンズに生まれる。19世紀末以降この町は、アメリカに残るヨーロッパ文化と、アフリカからの奴隷がもたらしたアフリカ文化、それらに彼らの音楽センスが加わりできた新しい音楽の揺りかごとなる。
1917年 1月、白人ミュージシャンの楽団、オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドがジャズの最初のレコード<リヴァリー・ステイブル・ブルース〉を録音。11月には、ニューオリンズの歓楽街ストーリーヴィルが閉鎖され、ミュージシャンが北部に移動する。
1925年 ルイ・アームストロングがホット・ファイヴと組み、シカゴで名作となる録音をする。偉大なブルース歌手、ベッシー・スミスがアメリカ黒人音楽の女王と認められる。ジョセフィン・ベーカーの黒人レヴューがパリに上陸。
1927年 ピアニストで作曲家のデューク・エリントン率いるオーケストラが、ニューヨークのハーレムにある有名なキャバレー、コットン・クラブと契約。ハーレムは、"ハーレム・ルネッサンス"ということばに示されているように、当時の芸術活動の中心地となった。
1935年 ピアニストのカウント・ベイシーが、自ら率いるオーケストラとともにカンザス・シティのレノ・クラブでデビュー、最高の人気楽団になる。ニューヨーク52丁目にキャバレーやクラブの開店が相次ぎ、ジャズの中心地となる。
1938年 1月16日、クラリネット奏者ベニー・グッドマンの指揮のもと、クラシック音楽の殿堂である、ニューヨークのカーネギー・ホールにジャズが登場。多くの聴衆がこの新しい音楽を正真正銘の芸術と認める。
1941年 ニューヨーク、ミントン・クラブでの熱気に満ちたジャム・セッションに、ジャズの新たな主役たちが参加。その中にはサックスのチャーリー・パーカー、トランペットのディジー・ガレスピーなど、ビ・パップを代表するミュージシャンがいた。
1943年 1月1日、ニューヨークのカーネギー・ホールにおいて、デューク・エリントンがくブラック・ブラウン・アンド・ベージュ〉を演奏。アメリカ黒人社会にエールを送り、音楽を通じて黒人解放をめざす偉大な試みを実現した。
1945年 ビ・パップがジャズの新しい形式と認められる。チャーリー・パーカーが初期の傑作を録音。北部の工業都市に住む黒人の間でリズム・アンド・ブルースが人気を得る。Vディスクにより、ヨーロッパにジャズが広がり始める。
1948年 レコード業界では、直径30cmで33+1/3回転の長時間レコード(LP)を導入。このレコードには片面20分の録音が可能だった。これにより、ソロ奏者はそれまでのように演奏時間を短く切らないですむことになる。
1949年 パリのサル・プレイエルでのジャズ・フェスティバルが成功を収める。レニー・トリスターノによるニューヨークでの実験的演奏、トランペッターのマイルス・デイヴィスと彼の九重奏団による試みなどにより、クール・ジャズが誕生する。
1952年 黒人的な要素が薄まった、伸びやかで軽快なリズムのジャズがカリフォルニアに誕生。それはウエスト・コースト・ジャズと呼ばれる。サックス奏者のジェリー・マリガン、トランペッターのチェット・ベイカーらが参加したカルテットがたちまち人気を得る。
1955年 ハウスの生みの親と言われているDJ/プロデューサー「ゴッド・ファーザー・オブ・ハウス」ことFRANKIE KNUCKLESが、アメリカのサウス・ブロンクスに生まれた。
ぺレス・プラードの「セレソ・ローサ」がヒットしたことがきっかけで、日本でもマンボが流行。
1956年 アート・ブレイキーと彼のジャズ・メッセンジャーズを中心に展開されたハード・パップにおいて、ジャズはアメリカ黒人の伝統やブルースとの絆を再び結び直した。チャールズ・ミンガスは『直立猿人』を録音し、ジャズが黒人の怒りを表現した。
1957年 ワゴン・マスターズの堀威夫と寺本圭一が新バンドスイング・ウエストを結成。米国でロカビリーが盛んになったため、日本もその影響を大いに受けた。
ハリー・べラフォンテのカリプソの名曲を、弱冠18歳の“カリプソ娘”浜村がカヴァーして10万枚突破の大ヒット。日本でもカリプソブームとなる。
1958年 第1回「日劇ウエスタン・カーニバル」開催。早朝から数千人ものファンが日劇を取り巻くという盛況となり、大ブームを巻き起こす。総入場者数4万500人。
1959年 4人組のサーフロックバンド「ベンチャーズ」がデビュー。日本にエレキギターブームを巻き起こすきっかけとなった。
アメリカ、デトロイト市に音楽レーベル「モータウン」が設立された。ソウル、ブラックミュージックを中心とした音楽史上でも重要なレーベルの一つ。
1960年 ボルティモアのハンク・バラードが"Twist"を発表。全米でツイストが流行する。
サックス奏者オーネット・コールマンが『ブリー・ジャズ』を録音し、自由で形式にとらわれないジャズの新境地を切り開いた。同じくサックスのジョン・コルトレーンは自らのカルテットを結成、ジャズ史に残る名作を発表する。
1961年 “ドドンパ”は、アイ・ジョージや坂本スミ子の事務所、大阪ターゲット・プロの古川益雄社長が作った国産のリズムで、この年一世を風靡した。
1962年 ビートルズのリンゴ・スター、キャヴァン・クラブでビートルズのドラマーとして初デビュー。
中尾ミエ、コニー・フランシスの「可愛いベビー」でデビューし、大ヒットとなる。ツイスト旋風の申し子と呼ばれた。
1963年 「プリーズ・プリーズ・ミー」がビートルズの曲として初めて、イギリスのヒット・チャートの1位になる。
ビートルズのアルバム「ウィズ・ザ・ビートルズ」が発売される。
1964年 ビートルズが初のアメリカ公演を行う。
ビートルズのシングル「キャント・バイ・ミー・ラブ/ユー・キャン・ドゥ・ザット」が発売される。
ジョン・レノンの著書『イン・ヒズ・オウン・ライト』が出版される。
ロンドンのピカデリー・サーカスにあるパビリオン劇場で、ビートルズ初の主演映画「ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!」のプレミアム・ショウが開かれる。劇場のまわりには1万2000人のファンが集まる大盛況。マーガレット王女も、スノードン卿とともに出席。
ビートルズのシングル「ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!/今日の誓い」が発売される。
1965年 NYにディスコ<Arthur>がオープン。スウィンギン・ロンドン・カルチャーが隆盛
シカゴでミュージシャンの団体AACMが結成される。メンバーにはエアー、アート・アンサンブル・オブ・シカゴといったグループや、サックス奏者のアンソニー・ブラクストン、ピアニストのムハル・リチャード・エイブラムスといったソロ奏者がいる。
イスラエル出身のデュオグループ「ヘドバとダビデ」がデビュー。大ヒット曲「ナオミの夢」は、もともとイスラエルのコーヒーのCMソングであった。
1966年 NYにて、<Electric Circus>がオープン。サイケデリック、LSDブームが巻き起こる
ビートルズが東京公演を行う
1967年 ビートルズのジョン・レノンとポール・マッカートニーが「ミッシェル」でグラミー賞作曲賞を、ポール・マッカートニーが「エリーナ・リグビー」でグラミー賞コンテンポラリー歌唱賞を受賞する。
ファッションデザイナーの松田弘光が、文化服装学院を卒業後に、ファッションブランド「ニコル」を設立。
1968年 ジャクソン5がモータウン・レコーズと契約。精力的にツアーとレコーディングを行う。
ビートルズのシングル「ヘイ・ジュード/レボリューション」が発売される。
DAVID MANCUSOがNYの自宅でプライベート・パーティー“THE LOFT”をはじめた。“THE LOFT”は音楽重視のアンダーグラウンド・クラブの草分け的存在の一つ。
イギリスにてロックバンド「ディープ・パープル」が結成された。メンバーチェンジを繰り返しつつ、ハードロックの雄として君臨してきた。「スモーク・オン・ザ・ウォーター」はあまりにも有名。
1969年 NYに教会を改装したディスコ<Church><Sanctuary>が開店。DJを務めていたのはフランシス・グラッソ
トランペッターのマイルス・デイヴィスがジャズにエレクトリック楽器を導入し、同時にロックのリズムもとり入れた作品『ビッチェズ・ブリュー』を録音。ジャズとロックを結びつけるマイルスの試みに、仲間の何人かも追随した。
ビートルズがEMIスタジオ近くの横断歩道で『アビイ・ロード』ジャケット撮影
1970年 ギャンブル&ハフがCBSコロムビア傘下にフィラデルフィア・インターナショナル・レコードを設立
デヴィッド・マンキューソがプライヴェート・パーティー<Loft>をスタートさせる
ビートルズのジョージ・ハリスンが、ニューヨークでボブ・ディランと「イフ・ノット・フォー・ユー」をレコーディングする。
カナダ出身の4人組バンド「マッシュ・マッカーン」がデビュー。デビューアルバムの中からカットされた「霧の中の2人」が大ヒットした。
1971年 アルバム「レット・イット・ビー」がグラミー賞のベスト・オリジナル・スコア賞に輝き、ポール・マッカートニー夫妻、ロサンゼルスで開かれた授賞式で、ジョン・ウェインからトロフィーを手渡される。
1972年 <Galaxy21><Better Days>がオープン。ウォルター・ギボンズ、ティー・スコット、フランキー・ナックルズなどのDJが登場。
フィラデルフィアの男性4人組グループ「ソフトーンズ」がデビュー。「愛のあかし」の大ヒットで一躍注目を集めた。
1973年 エディ・ケンドリックス"Girl You Need A Change Of Mind"がリリース。後に<初のディスコ・ミュージック・レコード>と評された。
ニール・ボガートがLAにカサブランカ・レコードを設立。
岩手県出身の3人組のフォークバンド「NSP」がデビュー。ヒット曲に「夕暮れ時はさみしそう」「赤い糸の伝説」などがある。
1974年 ラヴ・アンリミテッド・オーケストラ、MFSB、ヒューズ・コーポレーション、ジョージ・マクレーなどのディスコ・ヒット・シングルがポップ・チャートで1位を記録。
ジョー、ケン、スタンリーのカイル兄弟がサルソウル・レコードを設立。
TV番組「ソウル・トレイン」が放送開始。
ラリー・レヴァンがDJをスタート。
ジョルジオ・モロダーのプロデュースにより「ドナ・サマー」がデビュー。ディスコの女王として活躍。代表曲に「ホット・スタッフ」「アイ・フィール・ラヴ」など。
1975年 ハロルド・メルヴィン&ブルー・ノーツ"Bad Luck"がビルボードのディスコ・チャートで11週連続1位に
シルヴァー・コンヴェンション"Fly,Robin,Fly"、ドナ・サマー"Love To Love You Baby"などがヒット。ユー口・ディスコが台頭
1976年 ピー・ジーズ"You Should Be Dancin'"、テルマ・ヒューストン"Don't Leave Me This Way"などが大ヒット
ダブル・エクスポージャー"Ten Percent"が、商用では初の12インチ・リミックス盤として流通
メル・シェレン、エドによる独立系レーベル、ウエスト・エンドが創業
セックス・ピストルズがデビュー。UKでパンク旋風が吹き荒れる
ラリー・レヴァンがパラダイス・ガラージの共同オーナーに。同クラブのレジデントDJとして名を馳せる一方、プロデューサーやリミキサーとしても活躍
フリー・ジャズを受け継ぐ若いミュージシャンたちがロフト・ジャズに活路を見出す。ニューヨークの工場地帯に残された空間を住居やスタジオに改造し、自分たちの自由な空間で自由に演奏するジャズをロフト・ジャズと呼んだ。
1977年 フランキー・ナックルズがNYからシカゴへ拠点を移し、<Warehouse>でDJを開始
NYにてセレブリティ向けディスコ<Studio54>がオープン
NYのキング・ストリートに巨大ディスコ<Paradise Garage>がオープン
映画「サタデー・ナイト・フィーバー」が全米で公開。世界的なディスコ・ブームの契機となった
シックの『Dance,Dance,Dance/Everybody Dance/You Can Get By』が大ヒット
1978年 ローリング・ストーンズ"Miss You"リリース。翌年にかけてロッド・スチュワート、キッスなどがディスコ・シングルを発表。
アメリカで開催の“クール・ジャズ・フェスティバル”サンディエゴ会場の出演者は、シック、シスター・スレッジ、GQ、リック・ジェイムス、オージェイズほか、そうそうたる面子。初日のトリはテディ―・ペンタグラス、二日目のトリはマーヴィン・ゲイという豪華さ。
ディスコ映画「サンク・ゴッド・イッツ・フライデー」が公開、第51回アカデミー賞歌曲賞を受賞。
1979年 シカゴのロック専門ラジオ局DJを中心に、ディスコ・ブームに異議を唱える<ディスコ・サックス><バックラッシュ>運動が起きる。
シュガー・ヒル・ギャング"Rapper's Delight"がリリース。
イギリスの代表的なエレクトロニックポップバンド「ヒューマン・リーグ」がデビュー。「ファッショネーション」などのヒット曲を多数発表した。
1980年 NYにて旧<Fillmore East>を改装した巨大ゲイ・ディスコ<Saint>がオープン
ビートルズのジョン・レノン、ニューヨークの自宅前でファンに射殺される。報道後、自宅周辺には大勢のファンが集まった。当時のカーター大統領が、ジョン・レノンの死を悼んで特別声明を出した。
1981年 バトリック・コウリー、ジノ・ソッチョ、ライムなどのシングルがビルボード・ディスコ・チャートでトップに。米西海岸を拠点にハイエナジー・サウンドが台頭。
UKを基点にニュー・ロマンティクス、エレポップなどが流行。
MTVが放送開始。
シカゴのラジオにおいて、HOT MIX5というDJグループが、ダンス・ミュージックをプレイし、流行を広げていった。HOT MIX5のメンバーは、JESSIE SAUNDERS、FARLEY KEITH、MICKEY OLIVER、RALPHI ROSARIO、KENNY JASON。
1982年 英マンチェスターにクラブ<Hachienda>がオープン
マイケル・ジャクソンがアルバム『スリラー』を発表。アルバム『E.T.ストーリーブック』でナレーションを務める。ブックレットにはE.T.とのツーショット写真も
1983年 マイケル・ジャクソン『スリラー(Thriller)』が記録的ヒット
アルミニウム製で円盤の形状をもち、レーザー光線で音を読み取る方式のコンパクト・ディスクが出現し、それまでのビニール・レコードにとって代わる。こうした技術革新により、ジャズ初期からの歴史を録音して記録することが可能となった。
札幌のDJ、TOKUは(おそらく)日本人として初めてNYのダンスクラブ「PARADISE GARAGE」を体験、そして札幌のDJ、HEYTA、NORI、そして東京のDJ、高橋透をPARADISE GARAGEに案内した。このことが日本のハウスシーンの始まりのきっかけの一つとなっている。
1984年 デッド・オア・アライヴ"You Spin Me Round(Like a Record)"、エヴェリン・トーマス"High Energy"などのハイエナジー・サウンドが大ヒット
マーヴィン・ゲイが実父に射殺される
最初のハウス・シングルと言われる、ジェシー・サンダース"On&On"が発表
1985年 ビートルズのリンゴ・スター、アサヒビールの「シュウェップス」のCMに出演する。
COLONEL ABRAMS“Trapped”など、打ち込みのガラージ・サウンドとして、現在と変わらないスタイルを確立。
シカゴ発の、これまでのサウンドとは一線を画すダンスミュージックが登場した、その名も“ハウスミュージック”。
1986年 グレイス・ジョーンズ"Slave To The Rhythm"、ペット・ショップ・ボーイズ"West End Girls"、バナナラマ"Venus"などがディスコ・チャートのトップに。
ハウス系サウンドを打ち出すレーベルが生まれ、次々にリリース開始。主なものに、EASY STREETからPAUL SIMON“You Don'tKnow”、CULTURAL VIBE “Ma Foom Bey”、SUPERTRONICSからTOUCH“Without You”などがある。
1987年 <Paradise Garage>が閉店
UKにてM/A/R/R/S"Pump Up The Volume"が大ヒット。コールドカット、ボム・ザ・ベースほかUK産ダンス・ミュージックが台頭。
UKではクラブ<シューム>などを拠点にアシッド・ハウスが爆発的な人気を獲得。
マイケル・ジャクソンがアルバム『BAD』を発表。
NYアンダーグラウンド・ダンス・ミュージックの黄金期を作り上げた一人である、FRANCOIS KENVOLKIANが、AXIS STUDIOを設立。
1988年 カイリー・ミノーグのシングル"The Loco-Motion"がダンス・チャート上位に。
NYにて、PARADISE GARAGEのゲイ・サイドとSAINTを引き継いだ形で、ジュニア・ヴァスケスがレジデントDJを務める、NY最大のゲイ系パーティー<Sound Factory>がオープン。
ロンドンでは、エクスタシーの流通と共にPAUL OAKENFOLDの“SPECTRUM”、NICKY HOLLOWAYの“TRIP”などでアシッド・ハウスが大ブレイクし、集客は一挙に10倍も膨れ上がった。
1989年 インナー・シティ"Good Life"、テン・シティ"That's the Way Love Is"発表。ヴォーカル・ハウスがダンス・チャート上位に登場し始める
JOEY NEGROがREPUBLIC RECORDSをスタートさせ、ガラージ・ハウスの紹介に勤めた
東京に7階建ての巨大クラブ「ゴールド」がグランドオープンした。
1990年 C&Cミュージック・ファクトリー"Gonna Make You Sweat(Everybody Dance Now)"がビルボード・ディスコ・チャート5週連続1位に。
シカゴで、STEVE SILK HURLEYがID PRODUCTIONを結成し、プロダクション、リミックスに活躍し、オーソドックスな形に進化したシカゴ・ハウスをアピールした。
HISA ISHIOKA氏と村田大造氏のプロデュースで、NY系ガラージDJをゲストに迎えるパーティー、“WORLD CONNECTION”がCAVE、“NEXT”でスタートし、本格的なNYガラージ・スタイルが紹介されるようになった。
東京にディスコ「ジュリアナ東京」がオープン。場所はクラブ「ゴールド」の裏手だったため、ゴールドに来ていたボディコン女性達が一気にジュリアナ東京へなだれ込んだ。
1991年 ロンドンにて<Ministry Of Sound>がオープン
日本の六本木にクラブ「YELLOW」がオープン。日本を代表するクラブとなったが、2008年に閉店。
DJ HARVEYがロンドンのGARDENING CLUBで“MOIST”を始める。
1992年 NYでラリー・レヴァンが38歳の若さで逝去。マジカルなプレイスタイルは、今もなお伝説として語り継がれている。
シカゴでロン・ハーディが逝去。
DJのWALTER GIBBONSがWORLD CONNECTIONで来日。
NYの“Sound Factory Bar”がオープン。
1993年 ペット・ショップ・ボーイズがヴィレッジ・ピープル"Go West"のカヴァー・ヒットを放つ。
ロンドンのクラブMINISTRY OF SOUNDではJUSTIN BERKMANNに代わって、TONY HUMPHRIESがレジデントとなる。
ラテン音楽の王様、ティト・プエンテがRMMレコード所属のサルサ・アーティスト総出演のアルバム「コンビナシオン・ペルフェクタ」に参加して、ティンバレスとヴィヴラフォンのソロを披露した。
1994年 ビートルズのアルバム「ザ・ビートルズ・ライブ!!アット・ザ・BBC」が発売される。
DJ PIERREのWILD PITCH STYLEやX-PRESS 2の延長線上に、JUNIOR VASQUEZが超グルーヴィーでバウンシーなプロダクションでファクトリー・サウンドをヴァージョン・アップさせた。
1995年 ビートルズのアルバム「アンソロジー1」が世界同時発売される。予約だけで350万セットを記録。
アメリカのハウスミュージックは大きな転換期を迎え、LOUIE VAGA、DEEP ZONE、LILLOIUSらが生ベースを使うことが多くなってきたように、生っぽいサウンドに傾いていった。
1996年 ビートルズのポール・マッカートニーがスポンサーをつとめたリヴァプール総合芸術大学(リヴァプール・インスティテュート・フォー・ザ・パフォーミング・アーツ<LIPA>)が開校される。
ロンドンのアンダーグラウンドでは、DJ HARVEYの影響を受けたクリエイター、DJ達によってNU HOUSEと言われるシーンが盛り上がり、BLUE NOTEでは、“LONDON X PRESS”などのNU HOUSE系パーティーが行われるようになる。
1997年 ビートルズの「フリー・アズ・ア・バード」がグラミー賞の最優秀ポップ・ヴォーカル・パフォーマンス賞と最優秀短編ミュージック・ビデオ賞に、「ザ・ビートルズ・アンソロジー」が最優秀長編ミュージック・ビデオ賞に輝く。
プエルトリコで最初の「ワールド・サルサ・コングレス」が行われた。
1998年 ビートルズのジョン・レノンの未発表音源を集めた4枚組CDボックス・セット「ジョン・レノン・アンソロジー」と、そのダイジェスト盤「ワンスアポナタイム」が発売される。
ラテン音楽の王様、ティト・プエンテがマンボ時代のヒット曲を再演した「ダンス・マニア’99」を発表した。
1999年 ビートルズのポール・マッカートニー、ロックの殿堂入りを果たし、ブルース・スプリングスティーン、ビリー・ジョエル、エリック・クラプトン、U2のボノ、ロビー・ロバートソンらと「ブルー・スウェード・シューズ」「ホワッド・アイ・セイ」「レット・イット・ビー」で共演する。
2000年 ビートルズの伝記本「ザ・ビートルズ・アンソロジー」が世界同時発売される。
ビートルズのアルバム「ザ・ビートルズ1」が発売される。34ヵ国で1位に輝く。
アメリカのIBIDAN RECORDSでは、プロデューサのJOE CLAESSELLがIBIDAN RECORDSのアーティスト達をプロデュースするショーケース的な形のアルバム、JOE CLAESSELL「Language」をリリースした。
バンドリーダー、ティンバレス奏者、ヴィヴラフォン奏者、コンポーザー、アレンジャーとして世界的に知られる、マエストロ、ティト・プエンテが急逝。マンボ・キング、エル・レイ・デル・ティンバル、(ティンバレスの王様)と呼ばれ愛された偉大なアーティストであった。
2001年 ビートルズのジョン・レノンの映像集、「ギミ・サム・トゥルース」がグラミー賞の最優秀長編ミュージック・ビデオ賞に輝く。
アメリカのIBIDAN RECORDSでは、JEROME SYDENHAM AND KERRI CHANDLERのアルバム「Saturday」をリリースした。
2002年 ビートルズの「エリナー・リグビー」がグラミーの殿堂入りを果たす。
2003年 ビートルズのアルバム「レット・イット・ビー…ネイキッド」が日本で先行発売される。
2004年 ビートルズのジョージ・ハリソンの「マルワ・ブルース」がグラミー賞の最優秀ポップ・インストゥルメンタル・パフォーマンス賞に輝く。
2005年 ビートルズのジョージ・ハリソンのトリビュートDVD「コンサート・フォー・ジョージ」がグラミー賞の最優秀長編ミュージックビデオ賞に輝く。
2006年 “キング・オブ・ソウル”こと、ファンクの帝王、ジェームス・ブラウンが死去。歌手、ダンサー、そして自身のバンドJ.B.'sのリーダーを務めた。

出典:
All ABOUT DISCO MUSIC(TOKYO FM出版)
ジャズの歴史(ヤマハ)
別冊宝島 マイケル・ジャクソン(宝島社)
DJバカ一代(Rittor Music)
ビートルズ事典(ヤマハ)
HOUSE LEGEND THE CORE OF DANCE MUSIC(アウトバーン)
DANCIN’ SALSA ダンシング・サルサ(アスペクト)
宝島特別編集 日本ロック大百科 年表篇(JICC出版局)